美しい国

 私が住む西宮市の東端には、南北に流れる武庫川がある。
 先日、ボーイスカウト活動をしている知人がやってきて、やおら話し始めた。

 「この頃ね、武庫川に住む魚が減って来たわあ。4種類ぐらいしかおらへん。」
 「へえ、そうなんですか。それって、あの川床の浚渫事業の関係?」
 「いや、川の源流。」
 「え、別に何にも開発してないよ。」
 「違うねん。六甲の山並みにある神戸や尼崎の住宅開発で伐採してるやろ。あれが広葉樹のとこばっかりやねん。森の針葉樹とのバランスが変わり、山が保水する力が無くなって来て、川の流れも変わって生態系が変わってきてん。
 宅地や工事の専門家が個々に動いても仕方がない事。自然は多くの事象のバランスにある。自然を守るには、それぞれの専門家が、お互いの意見を聞きながら発言して、よりよい道を探らないといかんねん。
 でもなあ、こうして壊れた自然を戻すには10年はかかるやろなあ。」

 失われてゆく自然。消えゆく作物。
 我々が取り戻すべき自然を描いた映画がある。
 「よみがえりのレシピ」(http://y-recipe.net/
 美しい国を表す里山の風景。取り戻すには多くの人の力の輪が必要となる。

 かつて安倍首相が著わした「美しい国」。
 (いまは「新しい国」という名前に変わって出版されているが、中味は少し変わっているだけですが…)
 そこでは”正しい事を行う為に、闘う政治家であらねば”という記述がある。
 しかし、”政権を取ったからには自由に行う”と言わんばかりの強行採決が”闘う政治家”を表すのだろうか。

 自分自身が唱えた”美しさ”を支えるには、多くの意見を聞こうとする姿勢と、意見を集約する寛容さが必要で、少数意見を排除する姿勢が必要なのではない。多くの人の力の輪が必要なのだ。

 形容詞だらけ、美辞麗句だらけの演説を作る前に、美しさの根底にあるものを理解しない姿勢であり続けるなら、美しさを語る資格などない。