「悪の凡庸さ」と思考する力


 「全体の利益を個人の利益より優先する」だけではなく、個人の私生活なども積極的または強制的に全体に従属させる。
 ウィキペディアによると、政治学上で「全体主義」を定義するとこうなり、個人主義の対義語となる。
 個人に従属すべき情報も、時に国家に対して提供しなければならない。それが何のためかも知らされず、秘密法という名のもとに施行される現実。


 かつて、アウシュビッツユダヤ人を送り続けたナチのアイヒマンが戦後逃亡していたが、イスラエル軍に捕らえられ、裁判を受けた。多くの人の命を、ただユダヤ人というだけで迫害した現実。
 ユダヤ人の政治哲学者にして、「全体主義の起源」を著したハンナ・アレントは、この裁判を傍聴し記事を書いた。
 「アイヒマンは”自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ。”」と。
 

 考えることを拒絶し、ただ上からの指示をきちんとこなすだけ。
 世界最大の悪は、何も考えない平凡な人間が行う悪であり、これをアーレントは「悪の凡庸さ」と名付けた。


 思考とは、「自分自身との静かな対話」だと多くの哲学者が述べている。
 その対話を捨て、考える事を捨ててしまえば、どんな悪行でも行うことは可能になってしまう。
 考える事で人間は強くなり、モラルの判断ができるようになる。


 秘密法に限らず、目の前のあることも、組織という全体主義の中で善悪が問われる場合がある。
 考えず、何もしなければそのまま悪がのさばる現実。
 「凡庸な悪」など、今どこでも転がっているのだ。

 しかし、考え抜くこと、そこから一歩踏み出すことで破滅にいたらぬこともできる。
 個人主義という言葉の中にある、考える自由を使い続けることこそが、我々の大事な能力なのだと思う。