おくりびと

 高度経済成長・核家族化が始まった頃から、自宅で死を迎えることが少なくなりました。病院で迎える死と自宅で迎える死の比率が変わったのは昭和54年、その年を境に今では84%の人が病院で死を迎えています。
 ”一世帯一家族それぞれが自分たちの家を持ち、両親の顔色を窺いながらではなく自分たちだけで暮らそう。”その考え方は決して間違いなのではないでしょうが、それを望んだが故に、例えば”おばあちゃんの生活の知恵””子供の病気の急変の対処””地域ぐるみの社会保護”など、失ってしまった物も多くあったのではないでしょうか。そしてそれが、小児救急を窮地に追い込んだり、子供たちを襲う環境を生み出した一因であるとは考えられないでしょうか。
 そして”命が消える時を家族で共有すること”、これも無くしてしまった大事なことのように私には思えます。命の最期をを看取ることは、自分がこれからどう生きればいいのか、生きることを考えることにもつながります。”死”というのは怖いものではなく日常に普通にあるもの、映画”おくりびと”はそんな”普通である事”を語ると同時に、家族で死を看取り送ってあげることの温かさや明るさまでもを描きだします。
   ”おくりびとhttp://www.okuribito.jp/  おくりびと (小学館文庫)
 例えばこんなシーンもあります。

  1. 亡くなったおじいちゃんの額や頬に、お別れの挨拶のように孫や奥様が口紅の痕を残してあげる。
  2. 履いてみたいと言っていたルーズソックスをおばあちゃんの遺体に足袋の代わりに履かしてあげる。

 そこには、最期を送ってあげる”おくりびと”達の明るさが実に生き生きと描かれているのです。かつて、テレビで最期を看取る一家族のドキュメンタリーを見た事があります。そこでは、祖父の死を迎えた家族の中にあって、孫たちがはしゃぎ走り回る姿が描かれていました。そんな風に日本にもかつて”死”が日常の生活の中にありました。医療が高度化し、病院で救われる命が多くなった半面、失われる命を通じて”生きることがどんなことなのか。何のために自分は生きているのか”を考える事・教わる事が無くなったように感じます。それが今日の拝金主義の様な社会変化にも通じるのではないかと考えたりします。
 映画”おくりびと”は、”送られる者”と”送る者”の姿を通じて、私達が本当に伝え続けなければならないものを示しているように思います。