最小不幸社会
「快楽や幸福をもたらす行為が善である。」
これは功利主義の原理と呼ばれているが、これを考案したイギリスの哲学者・法学者であるジェレミ・ベンサムは、
“正しい行為や政策とは、「最大多数の最大幸福」をもたらす。”と説いた。
(*功利主義については、“これから正義の話をしよう”マイケル・サンデル著に詳しく書いてある。)
彼の後継者と言われるイギリスの社会学者・経済学者ジョン・スチュワート・ミルは、著書“経済学原論”の中で、当時産業革命などでの物質的豊かさを獲得しているにもかかわらず、貧富の格差が広がるという当時の社会問題に対し、税を用いた政府の再配分によって社会変革が行われる可能性を示した。
これもまた、「最大多数の最大幸福」をもたらす為の政策の可能性を示したものだった。
一般に国の豊かさを示す経済指標としてGDP(国内総生産)が挙げられる。
しかし、豊かさは金銭だけであらわされるものだろうか。
治安や国民の健康、自然環境など、国の豊かさは、経済指標としてのGDP以外にも考えられる。
そういった意味で、ブータンのとるGNH(国民総幸福量)という考え方は面白い。
6月13日の日本経済新聞“けいざい解読”に米国ギャラップ社の面白い調査が掲載されている。
そこでは州ごとの景況感と生活の満足度の調査結果が簡単に述べられている。
この結果から、総じて景況感が悪ければ生活の満足度も低い事がわかる。
しかし例外もある。
アイダホ州は、景況感が50州の46番目であるにもかかわらず、生活の満足度は8番目と高い。
ロッキー山脈が貫くアイダホ州は、森林や渓谷に富み、生活費も米平均の95%で収まり、犯罪率も低く、人口も2008年までの8年で18%も増えているそうだ。
幸福とは何なのだろうか。
確かに、個人の価値観によって異なる幸福を、政治が掲げるべきものではないかもしれない。
しかし、ブータンの掲げる“国民総幸福量(GNH)”は、国民に夢を与える。互助・共助の概念を与える。
菅首相は、「最小不幸社会をつくる」と語った。
現実問題として、それは理解できる。
しかし、一国のリーダーが唱える理想として、“最小不幸社会”はあまりにも寂しい。
「最大多数の最大幸福…我々がめざす幸福をともに考えよう。」ぐらい語ってほしかったと思うのは私だけだろうか?