ある急患の夜

 「大雨警報が出たね。」

 いつもより早く帰れた今日、テレビを見ながら夕飯を作る娘に声をかけた。
 奥様は中学校の同窓会とかで、とうの昔に出かけている。

 その時、電話が鳴った。
 表示を見ると○○診療所からだ。

 「悪いね。○○さんに薬をお願いしたいんだけどいいかな?」
 「もちろん、大丈夫ですよ。」

 がんの多発転移があり、自宅での療養を選んだ○○さんは、最近急に状態が悪化し、もうベッドから離れられない。
 先日から在宅医療に変わっている。

 直ぐに服を着替え、店に向かう。
 横殴りの雨は、傘を無用のものにしてしまう。

 店のシャッターを開けていると、向かいの造園業の親父さんが話しかけてくる。
 「また急患かい?夜も日曜も関係ないね。」

 戸を開けて傘を待合の椅子に立てかける。

 早速レセコンを立ち上げ、聞き取った処方を入力し、薬を用意する。
 ゴアテックスの合羽を着こみ、愛用の電動自転車を待合から引き出す。

 「あれ?止んだ。」

 外はさっきまでの雨がうそのように、静かに息づいている。
 手を広げて暗い空を見上げても、もう雨は落ちてこない。
 今の間と、急いで患者宅までこぎ出す。
 電動自転車は今日も快調。坂を上がっても楽なものだ。
 
 患者さん宅に着き、ベッドサイドで薬の使い方を患者・家族に説明する。
 患者本人はいたって元気、頭も聡明だ。

 「ご苦労様でした。」ねぎらいの声を後にして、店に帰る。

 立てかけていた傘の先は、床に大きな水たまりを作っている。
 しかし在宅医療に向かっている間は、雨は一滴も降らなかった。

 時に神様も微笑んでくれる事がある。