独りで生きる。

 「あのお寿司変わってたねえ。人参太いのが丸ごと入ってるもん。」
 「そやろ。干瓢と一緒に巻いてん。胡瓜の漬物丸ごと一本もあったやろ。」

 晩御飯の足しにと、時々おかずを作っては持ってくる親父は86歳。
 目も耳も衰えておらず、最近はカメラに凝って平日はあちこちに旅歩き、写真を撮ってはコンピューターで画像処理をしている。
 日曜日は朝から競馬の予想。
 ネット回線を引き込んで、自宅で馬券を買いこんで一喜一憂している。

 妻を18年前に亡くしてからずっと独り暮らし。
 年々若くなる服装に、当初眉をひそめる事もあったが、最近はその若さに尊敬の感を抱き始めている。

 少し前、ある所で、在宅で療養する高齢者の暮らしをいくつか書かせて頂いた。
 薬局の店頭では見る事のない、ちょっと哀しく、そして切ないその暮らし。

 しかし、そういう生活とは異なり、独り暮らしを謳歌する高齢者の方が数多くいる。
 子供たちとは生活スタイルも、食事の嗜好も異なる暮らし。
 ならば、同居して互いに少しずつ気兼ねして暮らすより、別々に住んで自由に暮らす事の方が、尊厳を守る事が出来る。
 
 実は欧米では、老いても子供に頼らず、夫婦だけで、或いは独りで暮らすことが多い。

 そして、そこにはそれを支えるシステムがあり、民族性がある。
 例えば、旅行して土産を近所に配る習慣は日本は50%以上あるのに対し、米国は28%。
 しかし、隣家で急病になった人を診療所に連れて行くとなると、日本が8%に落ちるのに対し、米国は39%に上昇する。
 障害者へのサポートも、例えば盲目の人を駅で支える人など日本では非常に少ないが、米国は当然となる。
 日本では時に生活保護者や独居老人などの餓死事件を聞くが、米国では数千万人の貧困者に対してフードスタンプ(150ドル分の食糧クーポン)が支給されると同時に、NPOが一時宿泊や医療ケアを支援する。

 つまり、健康時では問題にならないが、病気や貧困など支援を必要とする時に、この国には支えるシステムがない。

 今年から、地域包括ケアシステムが少しずつ動き始める。自助・共助・互助・公助と名づけられたこの制度の”助け合い”が、どのように作られるのか。

 少なくとも”独りで生きる”事ができる地域を作る為には、私たちが変えなければならない生き方がある。