ヘイフリックの限界

 私の好きな江戸落語の噺の一つに「死神」がある。
 遊んでばかりで借金を重ね、嫁にまで愛想を尽かされた男が、死に場を求めて探している間に”死神”に呼び止められる。
 趣味が人助けである”死神”は、男に治る人間と死ぬ人間の見極め方法と、病気を治す呪文を教え、「医師は儲かる、医師になれ。」と勧める。「但し、決して死ぬ人間だけは治してはならぬ。」と言い残す。
 言われるままに医師になり、大儲けをした男は、ある時金欲しさに死ぬ人間をも治してしまう。
 言いつけを守らなかった男の前に、再び死神が現れ、男を地の底へと連れていく。
 そこには、今生きている人の命が、蝋燭の灯として表わされている。
 男の命を表す蝋燭は既に極めて短くなっている。それは、死ぬべき命を救ったために、その命と交換され、今まさに消えようとしているのだった…

 このように人の命が蝋燭の灯に例えられ、少しずつ短くなるように、細胞分裂も限界があり、約50〜70回で止まるといわれている。これを発見者の名にちなんで「ヘイフリックの限界」という。

 ヘイフリックの限界は、分子生物学が発達した今では、染色体末端にあるテロメアに起因することがわかっている。ヒトの細胞が分裂し、DNAが複製されるたびに、染色体末端にあるテロメアが短じかくなり、ある長さ以下になると細胞分裂が止まる。しかし、科学として長さが短くなる事が実証される前に、人は蝋燭の長さで既に現実を予見していたようだ。
 その比喩の見事さに、不思議なものを感じてしまうのは、私だけなのだろうか。

 お正月に合わせて、サイエンスと落語の融合話のお粗末…