生きる事の意味。

山の麓に住むT子さんのお宅は、薬局から自転車で約20分の距離にあります。
私が彼女の自宅を訪問するようになったきっかけは、昨年6月に送られてきた1枚のFAX.それは、医師からの指示書“居宅療養管理指導依頼書”。
91歳になる彼女は多くの疾患を抱え、また足元も不自由なため診療所に行くことも簡単にはできません。その為医師が週に1回往診に来ることになったのですが、薬の管理や服薬がうまくできなかったようです。そこで“在宅患者訪問薬剤管理指導”、介護保険を使用しているため“居宅療養管理指導”ということになりました。
自転車で訪問する“旅”は、昨年までは1週間に2回、症状の落ち着かないときは3回を超え、薬局には日に何度も電話が入る時期もありました。
12月の中旬には、ちょうど伺っている時に気分が悪いと吐き始め、倒れこまれました。その日は土曜日、運悪く主治医に連絡がつきません。ただ、緊急時の病院については指示を受けていたので、汚物を片付け、便利屋の車を呼び、病院へと搬送しました。病名は“ノロウィルス感染の疑い”、そのまま入院となり、治療が行われました。
退院したのもつかの間、年末の30日には再び同じ症状が起こりました。今度も主治医は年末で連絡がつきません。また同じように病院に緊急入院となりましたが、今度は症状が軽かったせいか、正月2日には退院する事がてきました。
彼女に限らず、私は患者様のお宅を訪問すると長居をしてしまう癖があるようです。季節の移り変わりと近所の様子を告げ、患者様の趣味・家族との関係・元気だった頃や子どもの頃の思い出、語りかけられる話をさえぎる事もなく聞いていると、あっという間に30分やそこらは過ぎてしまいます。そうそう、私が必ず“自転車”で患者様のお宅を訪問するひとつの理由は、季節を感じることができ、その家の近所の様子を話してあげることができるからです。なかなか自宅から出て行けない患者様には、「近所に新しい家ができたよ。」とか、「あそこの公園にこんな花が咲いてたよ。」というたわいのない話がとても楽しい話のようです。ただ、冬の雨の日は最悪です。いくら合羽を着ていても、嫌になる事が多々あります。
在宅医療を行うことは、多くの知識を身につけさせてくれます。薬だけでなく、嚥下障害に伴う簡易懸濁法や認知障害へのアプローチ・緩和医療・中心静脈栄養・介護保険制度など、薬剤師として学ぶべきものの姿が見えてきます。しかし、それよりなにより、患者様との話の中から“生きるという事がどういうものなのか、医療は何のためにあるのか。”を教わる事ができます。
自宅を訪問して、縁側から“T子さん、こんにちは!”と声をかけると、“あら、来てくれたの!待ってたのよ。”との返事に、私は嬉しくなります。
先日、2週間受け入れた薬大生の実習にも、在宅医療の実際という事で附いて来て貰いました。T子さんの裏庭に咲く紅梅を一緒に縁側から眺めながら話した事は、病院薬剤師を目指している彼女にはどう見えたでしょうか。少しは薬局薬剤師の地域医療にかける熱意もわかっていただけたでしょうか。
その日、実習生の学生さんに、T子さんはこんな言葉で語りかけました。
「あのね、年寄りの私たちはもう死にたいとか言うでしょ。でもね、実は本当に死にたいなんて思っているわけないのよ。この年になると死は目の前にあるの。でもね、誰も苦しかったり、痛くて死ぬのは嫌。それより生きていたいの。その日が来るまで生きていたいのよ。」
彼女の胸にこの言葉はどう響いたでしょうか。
生きるという事、それに寄り添う私たち薬剤師のあるべき姿が見えたでしょうか。