“わからない”という事。

 高校時代、私は化学や物理が嫌いでした。芳香族の構造がなぜあるのか、それを教えて下さる授業の中身も、何を言っているかさっぱりわからなかったからです。必然的に大学は文科系の経済学部に入りました。おそらく、こんな理由で文科系学部に入学した人は、沢山いるかと思います。それで、理科系の人には少なからずコンプレックスを抱いていました。
 大学に入ると、消費動向・金融などの予測などに数理経済を使いました。そこでは、株価の変動など、市場における投資家の行動予測に、統計から用いる数学を使っていました。人の思惑で動く株価の変動になぜ数学が用いられるか、私には理解できませんでした。教授に聞くと、“わからない”とはおっしゃらず説明が行われます。その説明も実はよくわかりませんでした。働き始めた企業での広告評価や売り上げ予測にも、数学が用いられます。人の心や気持ちなどが数学で測れるのか、疑問を持ちつつ上司に聞くと、ここでも説明が行われましたが、よくわかりません。
 母の死を機に、生きる間は悔いのない生き方をする為に、薬剤師になろうと思い、嫌いな化学を独学で勉強する事になりました。チャート式の参考書を買って勉強してもやっぱりよくわかりません。しかしある時、本屋で「実況放送」シリーズの参考書を購入し、家で読んでみると、今までわからなかった事柄がいとも簡単に理解できます。おかげで薬学部に入学できました。(教え方一つで人の人生は変わります。教えるという事は怖いものです。)
 大学での授業でもわからないことは出てきます。教授に聞くと、丁寧な説明が行われますが、教授でも“わからない”事は“わからない”とおっしゃいます。その事に私はびっくりしてしまいました。
 文科系の授業では、“わからない”事に何かと説明をつけ理解しようとします。つまり、“わからない”事はありません。それに対し、理系の授業では“今わからない”事はわからないとします。その為に研究が積み重ねられ、“わからない”が解明されます。自然科学には、人がまだまだわからないことがあるというのは当然です。同様に、人文化学の中にもわからないことがあってよいと思います。無理に理屈をつける必要などないのです。
 新聞やTVの報道を見ていると、まさにあふれんばかりの情報に満ちています。しかし、よく見ていると、それは流す本人が“わからない”にもかかわらず、“わかった”様に思って流しているものが多々あります。例えば、タミフル後発医薬品の効果・後期高齢者医療制度など、分かっていないことが沢山あるにも関わらず、真実はこれ一つのような報道です。
 “わからない”事は恥ずかしいことではありません。“わかる”為に考えようと努力する事が、人を成長させるからです。まだ“わからない”事を素直に報道する姿勢も、メディアには必要なのではないでしょうか。