部分という名の幻想

 先日兵庫県の保険医協会主催の講演会で、講談社新書”生物と無生物の間”で有名な分子生物学福岡伸一教授のお話を聞く機会を得ました。そしてそこで、ある絵にまつわる一つの話を聞くことができました。非常に面白い話だったので再録してみようと思います。

 
 ロサンゼルスの街並みを見下ろす山頂。そこには石油で巨万の富を得、多くの美術品を買い漁ったジョン・ポール・ゲッティの白亜の城:ゲッティセンターがある。そしてそこには、この美術品を公開する美術館がある。
 その美術品の一つにこんな絵がある。
 題して「ラグーナ(潟)での狩猟」
 1495年の作品で作者はカルバッジョ
 もう日も沈もうとする頃、空には夕焼けも見えている。イタリア貴族たちが鵜飼のような狩猟を楽しんでいるようだ。のどかな光景が描かれている。

 
そしてもう一枚の絵。これはベネツィアにあるコレール美術館が所蔵しているカルバッジョの絵だ。
 題して「二人のベネツィア婦人」
 しかし、一般にはこの二人の女性は”コルティジャーネ(高級娼婦)”だと言われている。女性をよく見てみると、ふくよかな胸に胸のあいたドレス、そこには頸飾りが輝いている。しかしその眼はどちらもうつろだ。当時金のない庶民の女においては、コルティジャーネになり金を稼ぐことはよくあること。しかし彼女たちは娼館に閉じ込められたまま自由がなかったという。まさに二人の眼はそれを物語る。床で見つめる犬や猫だけが彼女たちの本当の心を知っている。この絵はそれを物語っていると評されていた。

 しかし、ある時一人の美術家が気づいた。”ラグーナ”の左下部に浮かぶ百合の花の事を。確かに、そこにはなぜか百合の花が咲いている。何故ラグーナに百合の花が?
 そしてもう一枚のコルティジャーネの絵の左上部には花瓶があり、茎だけが描かれている。
 まさか・・・。一つの想像が働いた。
 ラグーナの絵を上にして、二つの絵を上と下に置いてみる。そして、その合わせ目を調べてみた。
 切り口が合致した。
 そう、この絵は実は1枚の絵だった。貴族の夫達が狩猟に興ずる中、館に残された妻たちがつまらなそうにしている絵だったのだ。
 コルティジャーネの物憂い表情などという評、それ自体は実は勝手な評者の想像にまかせた発言だったのだ。
 さらに、2枚の絵の左側を詳細に調べてみると、二つの金具跡があった。つまりこの絵は双曲の屏風の1枚で、美術商が真中で2枚に分けそれぞれを売ったものだったのだ。
 
 全体の中のひとつの部分を取り上げそれを評しても、実はそれが真の意味をもつものかどうかは甚だ疑わしい。私たちは現代の世界においても同様に、ある部分だけを取り上げそれを評してはいないだろうか?例えば、社会保障における年金・医療・福祉、それぞれひとつづつを取り上げてはいるが、はたして3つ全てを取り上げてあるべき姿を論じているだろうか。ある部分だけを取り上げているならば、それは部分という名の幻想でしかないのだ。
 部分でなく、全体を包括的に見る目を養うこと、マクロとミクロを同時に考える思考、今我々に真に必要なのは そういった思考なのだと思う