ある独居老人の現実
私が関わる在宅医療は、概ね高齢者が独居、或いは夫婦二人で自宅に住んでいるものばかりになっている。
その理由の一つは、所謂施設が在宅医療を必要とする高齢者が多く住んでいる理由から、効率良く訪問できるのに対し、個人宅は非効率な為、多くのチェーン薬局がフィーが割が合わないと嫌がる現実にある。
しかし、医療人が持つ倫理性・公益性から考えれば、必要なサービスを均一に提供するのは当然のこと、経済的合理性と公益性の両面を実現する経営を意図しなければ、薬局が存在する価値はない。
ある金曜日の夕刻、一人の高齢者が住む自宅に、薬を持って訪問した。
「こんにちは。暑いけどしんどくない?」
「あら来てくれたの?ゴメンネ、いま髪を整えているの。もうすぐデイサービスに行かないといけないから。」
今は夕方。デイサービスはもう終わっているし、彼女が行くのは明日である。
「デイサービス明日だよ。それにもうすぐ暗くなっちゃうよ。」
「あら、もう夜なの…。
…私ねえ、鈍やから、今からやっとかないと、間に合わないわ。」
少しずつ昔とは違っている、記憶が失われてゆく。
つじつま合わせの作話は、自分への誇りを失わぬ為の方便である。
誰がそれを責められようか。
取り繕う言葉の中には、現状がわかっていなかった事への照れと哀しみがあるように映った。
”家での暮らしが一番。”と考える高齢者が多くいる中、彼女は最近ケアマネージャーに施設を探してほしいと依頼した。
一人で暮らす事のさみしさ、不安、多くのものが入り混じった結果の事なのだろう。
厚労省が在宅医療を進める為に縦割りの在り方を止め、医政局を中心とした横断的な組織の改編を進め出したという。
しかし、現実を見れば、政治によって作り出された核家族化が、高齢者に何をもたらしているのかを振り返る必要がある。
現実をまっすぐに見る目を持つ度量を望みたい。