「命の砂時計」と終末期医療

 先日、私の住む市で「第1回緩和医療研究会」が開催され、お知り合いの医師から連絡を頂き参加してきました。
 会場であるT病院の2階会議室は、沢山の方が参加された為にあふれかえり、急遽座席が設営されたりしていました。参加者を見渡すと、ケアマネージャーやMSW(医療ソーシャルワーカー)、訪問看護師など医療・福祉関係者がほとんどを占めていました。(お恥ずかしい限りですが、実は薬剤師は数えるほどでした。その辺が、地域医療の関連職種としてまだ認められていないところかもしれません。)
 研修会では、病院医師・診療所医師・訪問看護師・病院MSW・ケアマネージャーなどから多くの症例の発表が行われ、現在の緩和医療が抱える多くの問題点が浮き彫りになりました。
 最後に質疑応答が行われ、そこで一人の方が手を上げられました。
 「この中に何人の医療関係者ではない方がいますか?手を挙げてもらえませんか?」
 何人かが手を挙げます。
 「そうですか。実は私はこういった在宅医療や緩和医療の研究会には一般市民の声が是非必要だと思っています。例えば、皆さんはよくQOLという言葉をお使いになります。しかし、実際医療者からQOLと言われた時、一般の患者の家族はどんなふうに思うか考えたことはおありですか?私が言われた時は、ああもう命は残り少ないんだなあと愕然としたものです。そんな患者や家族の声が不在の在宅・緩和医療では、本当に患者に寄り添う医療は行えません。」
 実体験から生まれた言葉には魂があります。少なくとも私にはそう感じられます。この時の言葉はまさにそれでした。
 私達のように医療に携わる者は、近年QOLやADL・EBM、NBMまで使うようになりました。しかし、本当に患者や家族のことまで考えて伝えてきたのか、自分に問いかけなければならない大切な言葉でした。
 「命の砂時計」という本があります。
  いのちの砂時計―終末期医療はいま
 この本は共同通信社社会部が連載した、終末期医療を考える連載企画「さよならのプリズム」をまとめたものだそうです。
 ここには、がんや難病で逝き・そして生きる人達、それを支える家族やドヤの街山谷で患者を支える在宅ホスピス(この人達については”大いなる看取り”というまた別の本があります。)、苦悩する医師達の事が書かれています。
 例えば、尊厳死について、私は残された時間を自分らしく生きる為の権利として肯定してきました。しかし、この本には尊厳死について、「早く亡くなればよいのにと言われているようだ。」と話す難病の患者の家族がいます。まさに、一つの言葉でもその人の持つ境遇で意味は異なって感じられるものなのででしょう。私達医療者は、その事全てを含めて患者側に寄り添って生きてきたでしょうか。
 問われた医療の在り方について、私達は何かの形で答えていかなければなりません。その答えはそう難しいものではない、ただ行動で見せなければ伝わったことにはならない、その為に何をなすべきなのか、思索するべきことは山ほどあるようです。